3.11危機管理センターではどうしていたか
東日本大震災から5年が経ちました。
私の父方と母方の実家は宮城県にあります。特に父方の実家は当時の最大震度の7を記録した大崎市でした。
さて、当時の私はどうしていたか。
実は、その頃の私は危機管理サービスを行う会社でシステム運用に携わっていました。
この会社は災害時に契約会社の社員に対して安否確認を行うことを主たるサービスにしていました。すなわち、地震や火山噴火などの自然災害に関する情報の収集と情報発信をしていた訳です。その他にも天候、鉄道や飛行機などの交通情報なども配信していました。
ここの情報はテレビ局やケーブルテレビ、その他大手プロバイダにも提供されています。
では当日の様子を・・・。
14時48分の少し前。東京品川・・・。
前方に各テレビ局の映像が一度に見られるように沢山の画面が並んでいる部屋の一隅に私達運用スタッフの席があります。
何事も無ければすることもない運用スタッフはいつものようにコーヒーなどを飲みながらのんびりとした時間を過ごしていました。
30秒前、突然作業スタッフ用のテーブルに設置された地震予報端末が警報を発令しはじめました。震源予想地は東北地方沿岸。スクリーン上には震源地と予想される場所に円が描かれて予想震度5と表示されていました。
我々の仕事は震度5以上の地震が発生した際に各企業向けの安否確認が正常に行われているか確認いることで、合わせて複数あるサーバーの負荷状況のチェックや異常時の対応が仕事になります。
つまり、仕事が始まると言うことで緊張した顔でモニターを見ていた訳です。
そして、運命の14時48分。
少し遅れて大きな横揺れが始まりました。
「大きくね?」
と話し合うスタッフ達。
モニターの予想値が5強になりました。
「あっ。上がった」
次の瞬間、横揺れはさらに大きくなり、キャスター付きの椅子が横に揺さぶられます。
「おいおい。6弱になったぞ」
書棚の書類の一部が落ち始めました。
「まじか。6強だ」
誰かの声が聞こえました。
テレビ局各社の画面に一斉に地震情報が流れます。
そして、予想震度はとうとう7になりました。
私の感覚では数分の大きな横揺れがあったと思います。
ちょっと船酔いに似て気分が悪くなってきました。
その後も大きな余震が立て続けに起きます。
我々はサーバーの負荷を確認する為にモニターを確認しました。
一斉に何十万ユーザーに対して安否確認メールが配信されていきます。負荷は急上昇していきます。
「やばくね?」
そうです。サーバーの負荷と言うより通信インフラの限界が来ていたのです。この時点で電話は繋がらず、メールすら飛ばない状況になっていたんです。
それも、立て続けに起きる余震が全て5以上だったため、都度安否確認メールが配信され続けます。
各キャリアは大量に発信されるメールの為、その帯域を制限しはじめたのです。飛ばないメールが大量に溜まっていきます。
監視モニタにはメール遅延に伴う異常が表示され続けます。
お手上げです。
所長はこの時点で配信の停止を決断します。
時間が経てば少しずつ溜まったメールが捌けていくはずです。
実際、滞留していた未配信メールが捌けたのは日付が変わってからの事でした。
15時過ぎたあたりからテレビ画面には津波情報が流れ始めます。
各局の画面は海岸線を映す映像が映し出されています。
そして・・・。
津波が沿岸の町を襲います。
次々に飲み込まれていく車、家、そして漁船など。
私達は為す術もなく画面を見続けることしかできませんでした。
どの画面も津波、津波、津波・・・・。
見ていることしか出来ない無力感に苛まれていました。
印象に残るのは真っ黒な海水が堤防を乗り越えていく恐怖です。
以前にも載せましたが、翌年に撮影した奥松島の住宅地です。
空き地には元は家があったと思われます。
一階部分は何も残されていません。壁さえも・・・。
この先にあった鉄道の駅も瓦解していました。
私はこの日、21時に会社を出て25キロの道のりを歩いて帰宅しました。
自宅に居た子供達からメールが届いたのは発生から5時間後の19時、銀座に勤めていた女房から無事を知らせるメールが来たのは22時でした。
足にマメをこさえつつ、家に帰り着いたのは25時でした。
近い将来、再び大きな地震が来ると予想されます。
日本の家は地震に強いと言います。ただし、家具や家財などが人の命を奪うことがあります。日頃から対策を講じてください。
我が家は全ての収納を作りつけにして、置き家具は全て廃しすることにしています。
ちなみに、私の大崎の実家では30キロ近いブラウン管テレビが飛んだと言います。
教訓は忘れない為にあります。心に刻んでおきましょう。