箱根と言う場所
熱も下がって体調は回復しました。ただ、腸の調子は未だに悪く、整腸剤を飲み続けています。今日は久しぶりにSLKで箱根に一人ドライブに出かけました。
18才で自動車の運転免許を取得して、以来ドライブの定番コースと言えば箱根を走ることだった。
西湘バイパスを経て箱根湯本、宮ノ下から仙石原をかすめて乙女峠を越えて東名高速で帰ると言うパターンだ。
これは今も変わらず、月に1~2度は走るコース。
40年間、月に2度として年に24回、40年間として960回・・・。
大学生の頃は毎週の様に出かけていたから、これよりも多いかも知れない。
私は車に乗ると何故か西を目指してしまう。東を目指すと東京都内を通らなくてはならず、私はあの都会の景色があまり好きではないからだ。
夜景として見る分にはキラキラと綺麗でいいが、あの車の多さと渋滞が嫌だ。
最近はアクアラインが出来たお陰で千葉方面にも出かけるようになったが、それ以前は千葉にも殆ど行ったことがなかった。
夜の足柄SA
さて、箱根と言えば、大学時代にお気に入りの女性がいた。
友人と長野にスキーに行くときに一緒に行った女性だ。仮にN子さんとしよう。
N子さんは友人の小学校からの付き合いで、昔から仲良しだったらしい。とは言え、友人には別に彼女がいてN子さんとは友人以上の関係では無かったようだ。
スキーの三日間で私はN子さんの愛らしさが気に入ってしまった。
小柄で華奢な体格、丸顔でなんとなく鳴子こけしのような柔和な表情をしていた。勝手な妄想だがこれは清楚な女性だと思い込んでいた。
友人に聞くと、相当良いところのお嬢様だと言う。
確かに、何度かN子さんの家にお邪魔したことがあるが、建物自体は新しくはないがお洒落な造りで、リビングには欧風の家具があり、挨拶したお母さんもとても上品な方だった。
私は月に1~2度だが愛車のシルビアを駆って箱根に通うようになった。
彼女は東京のお嬢様女子大に通っていて、休日は近くの彫刻の森美術のチケット売り場のバイトをしていた。
私が行くと彼女は裏口でこっそりとチケットをくれた。実は、友人は同じ彫刻の森美術館の駐車場でバイトをしていたのでこっちも無料で止めさせてもらっていた。
バイトが終わるの待って、N子さんをシルビアに乗せてドライブを兼ねて食事に行くと言うパターンが何度か続いた。
一度、乙女峠にある豪華なステーキハウス(今はない)で食事をしようと言うと、その日はドレスアップしたN子さんが目の前に現れた。その白いワンピース姿は妙に大人びて見えた。
おおっ。いつもと違うエレガントな姿。いいねぇ、なんて思いながら車を走らせた。
松明の明かりが周囲を照らし、テーブルの上にはキャンドルが・・・。雰囲気の良いレストランで学生にしてはちょっといい食事をした。(もちろん、私が食事代を負担した)
食後、山中湖の方までのんびりドライブをして御殿場市内に戻ってきた時のことである。
当時、御殿場インターの周辺はモーテル、いわゆるラブホが沢山建っていた。
否応なしにその横を通らないと帰れないのだが、N子さんがそれらを見ながら言った。
「こう言うところでするのってなんか虚しいと思わない?」
唐突にこの娘は何を言い出すんだ。(汗)
「・・・」
私は沈黙を余儀なくされた。
これは貴方とはこう言うところには入らないわよと釘を刺しているのか、それともちゃんとしたホテルならいいわよと言っているのか、なんとも意味深な発言だった。
私は無関心を装いつつ運転したいたのに、それを知ってか知らずか話題に持ち出すと言うのはどう言う魂胆だったのか、経験の乏しい私には反応することが出来なかった。
たぶん、今なら「じゃあ、箱根プリンスでも行きますか?」と返せるものを。(笑)
その後、私はなんとなく彼女と連絡を取らなくなってしまい、関係は自然消滅した。
N子さんのご家族は私を何度も家に招き入れ、お父さんとも車の話で盛り上がったこともある。もしかすると、あのまま続いていればどうなっていたかは分からない。
あの彼女の言葉の真意は未だに謎のままである。
清楚な女性と思い込んでいたのに、その口から「する」と言う言葉が出たことに動揺したのかも知れない。
当時、二十歳の生真面目な青年であった私は何を感じとったのであろうか。当時の私は愛車の助手席に女の子を乗せているだけで満足だったのだ。
そう言えば、別の女性からラブホに行ったことがないから連れて行けと言われたことがある。もちろん、断ったが行ったら最後だったかも知れない。後にその女性から結婚を迫られたが、既成事実を作らなくて良かったと胸を撫で下ろしたことは言うまでもない。
となると、N子さんはやはり行きたかったのだろうか・・・。
また、箱根には別のエピソードがある。
最初に就職した金融系の会社で私は電算室で仕事をしていた。
下にはパンチャーと呼ばれる女の子達がいた。
ある日、見たことがない若い女の子が伝票の修正を依頼しに部屋に入ってきた。
どうやら、今日から入社した中途採用の子だったらしい。名前は仮にH子さんとする。
H子さんは私より4つ下で、青森から叔母を頼って上京してきたと言う。
何度か部屋を訪れるうちに、彼女は私に懐いてしまった。昼に食事に行こうと階段を下りると下でいつも私を待っているのだ。お陰で社内では私がH子さんと付き合っていると言う噂が立ち始めていた。
背丈は私とあまり変わらなかった。割とグラマーな体型で、カーリーヘアーを茶色に染めていた。なんとなく松田聖子風に見えたのは当時の流行だったからかも知れない。今になって改めて写真を見ると、実に惜しいことをしたと思う。(笑)
口数の少ないおとなしい娘だった。
当時、私は茶髪の女性に余り好感を持っていなかった。失礼な話だが、ヤンキーは苦手だったのだ。彼女がヤンキーだったのか、それとも姿を真似ていただけなのかは分からない。
食事中、東京は初めてで、まだ何処にも行ってないのでどこかに連れて行って欲しいとせがまれた。
と言うことで、次の日曜に箱根に連れて行くことになった。
当時の写真がアルバムの中に残っているが、彼女の服装は紫色の上下でアラビアの踊り子みたいな雰囲気の服だった。
車で箱根を一周して、レストランで食事をご馳走して、夜の九時頃にH子さんの住むアパートの近くで車を止めた。
「着いたよ。お疲れ様」
私はH子さんが車を降りるのを待っていたが、一向に降りようとはせずモジモジしている。
「どうしたの?」
私が聞くと、H子さんはさらにモジモジとするばかりで答えない。
「明日は仕事なんだから早く寝た方がいいよ」
そう言うと、少し膨れたような表情で車のドアを開けた。
「今日はありがとございました」
と余所余所しい挨拶をしてアパートの階段を上っていった。
それから一月後、私はシステム開発の会社に転職した。
彼女には連絡先は何も教えずに。
後に最初の会社の先輩と食事をする機会があって、H子さんの話が出た。
「あの頃、おまえとH子が付き合ってるってみんなが言ってたけど、本当のところはどうだったんだ」
と聞かれ、そう言う関係はなく、一度だけ出かけた箱根ドライブの話をした。
「そりゃあ、おまえ、据え膳食わぬは男の恥ってやつだぜ」
と先輩は言う。
なるほど、そう言うことだったのかと始めて気づいた私であった。
ただ、H子さんが私の好みだったか言えば決してそうではなかったのだ。
好みでもない女性に手を出して、責任問題にでも発展したら大変な話ではないか。
かく言う先輩は会社の女の子の据え膳を食ったらしく、結局その娘と結婚していた。
H子さんは私が転職した一月後に会社を辞めたそうだ。
先輩はてっきり私の後を追ったと思っていたらしい。
たぶん、彼女は東京で男を捉まえて早く家庭に入りたかったんじゃないかなと先輩は言っていた。
今から思うと、見た目が清楚なN子さん、見た目は派手なH子さん、実は内面は逆だったのかも知れない。
箱根に行く度、横に乗せた女性達の顔が頭を過ぎる。もちろん、その最後に乗せた女性が今の女房である。
あの頃聞いていた曲を流しながら、箱根の山道を走ること、それは私にとって至福の時間なのである。
青春と車窓の景色は流れ去るものなり・・・か
おそまつ