ルーツを求めて東北へ
引き渡しの際に東北から火災保険の代理店をしている従兄弟が来てくれました。
暇な私は帰りに送っていくことになり、ついでにこちらに住む叔父夫婦を乗せて10年振りの里帰りをさせてあげることにしました。
本当はランエボで行きたかったんですが、今回は7人乗りのオデッセイの出番です。
母方の実家は宮城県の刈田郡蔵王町にあります。ここで叔父夫婦を下ろして、父方の実家のある大崎市へ移動しました。
ところで、我が家の系譜は古くは奥州藤原氏の時代まで遡ります。
当家は直系本流ではありませんが、直系を含めてこの姓を名乗るのは国内で3000世帯以下と言う家です。
記録によれば元々は母方の実家である刈田郡辺りを最初の領地として居たようで、後に紹介する刈田峯神社の氏子であっと言います。
この話はルーツにうるさい従兄弟も初耳だったようです。
さて、大崎市の実家で朝を迎えた私は朝食前に従兄弟と二人で隣町の松山町と言うところに向かいました。ここには当家の武家屋敷跡があると言います。
町の観光案内図に屋敷跡の記載がありました。
どうもこれでは分かりづらいので、途中で農家の方々が集まっていたので道を訪ねました。親切にも色々な話も聞けました。ありがとうございます。
迷いながらもどうやらそれらしい場所に到着。
神社がありました。申し訳ありません、身元が割れるので名前は消させていただきました。
白鳥神社とは日本武尊の神話に出てくる悲話が元になっている神社だそうです。
その横に家臣団の慰霊碑もありました。
屋敷跡の場所が不明で、草刈りをしていたおじさんに道を聞くと色々と歴史的な話を聞かせてくれた上、軽トラで道案内までしてくれました。おじさん、○○様と呼んで当家の先祖に尊敬の念を示してくれたことに感謝しています。我々が末裔であると知ると嬉しそうにしていました。本当にありがとうございました。
当家は先に紹介した刈田郡の領地から岩手県の江差地方に移動しています。これは奥州藤原氏の時代で藤原三代記にも名前が散見されます。
後に7万石の小大名まで上り詰めました。
ところが、豊臣秀吉の北条征伐の際に小田原参陣に応じず、小田原仕置きにおいて領地を没収されてしまいます。
私の推理では参陣拒否は正宗の策略があったのではないでしょうか。
また関ヶ原の戦の際に蒲生氏郷の領地であった奥羽で当家の領主が一揆を起こしています。これは正宗と共謀したことはほぼ間違い無く、両者の関係は浅くは無かったと思われます。
北条征伐の後、伊達政宗が会津から奥州へ国替えを命じられた後、正宗の庇護の元、この松山の地に屋敷を構え、120石の禄を得てひっそりと暮らしていたと言います。
この森の向こうに屋敷が建っていたそうです。今は雑草しか生えていない荒れ地だそうです。蚊にさされそうなので足を運びませんでした。
その後、当家は正宗の口利きで伊達藩で役職を得て家名は復興したとあります。
午後から母方の刈田郡へ戻りました。
これが白鳥刈田峯神社です。母方の実家から徒歩5分です。
なんて言うんでしょう。石版・・・。
本殿です。創建は791年、坂上田村麻呂の東夷征伐の時代に建立されたようです。
平安遷都の3年前・・・古いですよねぇ。
当家がここの氏子であったと言うことは岩手への移動は建立の後に行われのでしょう。
松山町の神社が白鳥○○神社と命名されていることから、代々白鳥神社の氏子だったのでしょう。
それにしても母方の実家がある町が我が家のルーツだとは面白い因縁だと思いました。
もう少し詳しくルーツを探るために、秋頃に長年の領地であった岩手県江差地方に行ってみようと思います。岩手県北上市には当家の名を冠した町や川、山が今でもあります。
ただし、この姓を名乗る人は住んでいないとのことです。
もちろん、今度こそランエボで・・・。
以上、宮城県ルーツの旅でした。